Viking. Christophe Jaffrelot (12 April 2016). Washington, DC: Congressional Research Service (CRS): Congressional Research Service (CRS). 宗教だけでまとまろうとした国の破綻 . 1.パキスタンの文化を知る前に!そもそも、どんな国なの? パキスタンは、南アジアにある国で、インド亜大陸の西の付け根にあり、西はイラン、東はインドに接するシルクロード上にあり、多様な民族や文化の交流があり、古くから文明が栄えました。 China and Proliferation of Weapons of Mass Destruction and Missiles: Policy issues. 宗教だけでまとまろうとした国の破綻 . Twitter; Facebook; Pin it; LinkedIn; B! 目的別に見る 海外ビジネスの目的にあわせてご利用いただける、ジェトロのビジネス情報とサービスをご案内します。 詳細を見る. Columbia University Press. pp. 『日本経済新聞』朝刊2016年11月20日「日曜に考えるグローバル/パキスタン 親中路線 不安の声も」, 「パキスタン中間層410万円 世帯所得伸び消費けん引/中国とのインフラ事業も追い風」『, World Economic Outlook Database, April 2014, http://dsalsrv02.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.0:1:1478.raverty. バングラデシュは、1947年の印パ分離独立時は宗教(イスラム)に基づき、一旦はパキスタンへの帰属(東パキスタン)を選択したが、ベンガル人としてのアイデンティティーを訴えた独立戦争(第三次印パ戦争)を経て、1971年12月にパキスタンから独立した。 1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。, 1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。, 2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)のイフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止される。, 2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。, 2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。 2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し[13]、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。, 2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。, 連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラマバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。パキスタン憲法は、連邦直轄部族地域では大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨規定しており、部族地域は強い自治権を有している[14]。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されている[15]。, 陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。, パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年の核実験以後は核兵器を保有している。, 独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。中央条約機構や東南アジア条約機構の存続期間等から読みとれる。, 日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に関係は悪化した。当時の橋本内閣は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った[16]。, 2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。, また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。, 独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争における大敗によって独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。, 1998年にはインドに対抗してカーン博士の指導のもと地下核実験やミサイル発射実験などを実施した。インドと共に核保有国の一つとなる。, 2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時のムシャラフ大統領は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している[17]。, 一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれている等、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロによって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして2011年2月に対話再開で合意している。2018年8月には上海協力機構の合同軍事演習に両国は参加し[18]、インドとパキスタンにとって独立以来初の国連平和維持活動以外での軍事協力となった[19]。, パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義のインドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイラン革命を起こしてアメリカと激しく対立するイランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある[20]。, 1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。, 2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援等の見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた[21]。, アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初ヘクマティヤール派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている[22]。ターリバーン政権であるアフガニスタン・イスラム首長国と外交関係を持つ3カ国のうちの1つであった。, しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権からF-16 戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。, 2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。, 2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオバマ米大統領より発表された。, サウジアラビアはイスラム世界最大の友好国とされ[23]、北イエメン内戦ではパキスタン軍が派遣され[24]、イラン・イラク戦争の過程でサウジアラビアには2万人から7万人ともされるパキスタン軍が駐留することになった[25][26]。1976年には世界最大級のモスクであるファイサル・モスクが寄贈された。また、パキスタンの核開発計画の資金源だったともされ[27]、クーデターで追われたナワーズ・シャリーフの亡命も受け入れた。, 2015年にサウジアラビアがイスラム協力機構の条約を根拠にイスラム圏34カ国と対テロ連合イスラム軍事同盟(英語版)を発足させた際は、初代最高司令官に前パキスタン陸軍参謀長のラヒール・シャリフ(英語版)を任命した[28]。2019年2月にムハンマド・ビン・サルマーン皇太子がパキスタンを訪れた際は中国の専用機と同様[29]に搭乗機がパキスタン空軍のJF-17にエスコートされており[30]、グワーダルで製油所建設なども行っている[31][32]。, 中華人民共和国との関係も深く、上海協力機構の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して印パ戦争で支援国だった他、米中の接近をもたらしたニクソン大統領の中国訪問を仲介したり、核技術[33][34][35]やミサイル技術の供与、戦車と戦闘機と軍艦の共同開発など軍事協力を幅広く行い、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや原子力発電所、パキスタン初の地下鉄ラホール・メトロ(英語版)の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。2011年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。2015年の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では派遣されたパキスタン軍が天安門広場を行進した[36]。, また、ギルギット・バルティスタン州と中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面して中国の軍事利用を懸念されているグワーダル港までの約3,000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタン軍はラヒール・シャリフ陸軍参謀長が指揮[37]するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した[38]。CPECは中国が進める「一帯一路」と、対インド包囲網「真珠の首飾り戦略」の一部でもある。, 中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。, ソ連のアフガニスタン侵攻で、パキスタンはアメリカ、中国、サウジアラビアとともにソ連と戦うムジャーヒディーンを支援した(サイクロン作戦)。ソビエト連邦はアフガン撤退の直後に崩壊。ロシア連邦となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったこともあって関係が改善し、2016年にはパキスタン領内でロシア連邦軍と初の合同軍事演習を実施した[39]。, パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い。, パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジアラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置の解除を承認・指示し、過激派に対し厳しく対処する姿勢を打ち出した [要出典]。, また、法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に婚前交渉を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人は珍しくないとされる[40]。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている[40]。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという[41]。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている[42]。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く[43]、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある[40]。, 2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大地震(パキスタン地震)が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。, 2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。, 北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。, 7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ(福井県に相当)が冠水[44]19万人が国内避難民[45]と成っている。, IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である[3] 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている[46]。, パキスタン証券取引所のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている[47]。, 主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第6位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く[48]。また、中国が一帯一路政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、セメントや鉄鋼の生産が増えている。, 2011年に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。また、インドが含まれるBRICsの次に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、テロの頻発など治安もとても悪いが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、コカ・コーラや味の素など飲食品・消費財メーカーが進出している。, 通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。, 日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。フロンテやキャリイなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している[49]。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。カローラやハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した[50]。本田技研工業は、1992年より現地合弁会社のアトラスホンダ社を設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成[51]。 The National. さらに、東部の中心都市ラホールで出合ったイスラム宗教施設に 設置された学校、マドラサは、日本のお寺に設けられた 寺子屋そっくりの仕組みでした。 教育面で遅れをとっていたパキスタンの女性たちを対象に スタートしたノンフォーマル教育の取り組みは 日本の女学校の始まりを思い起� Kan, Shirley A. 輸出 制度・手続きを知� 5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。 "§A.Q. バングラデシュは、一九七一年十二月十六日、解放戦争に勝利し、パキスタンから独立した。一九四七年、英領インドからインドとパキスタンが分離独立したとき、現在のバングラデシュはパキスタンの一翼を形成する東ベンガル州(一九五五年、東パキスタンと改称される)として独立した。 http://en.wikisource.org/wiki/Now_or_Never;_Are_We_to_Live_or_Perish_Forever%3F, https://books.google.com/books?id=7q9EubOYZmwC&pg=PA177, https://semanticscholar.org/paper/b0f99025d232494803f84f1a4578d7a11dcf1be2, “パキスタン ムシャラフ元大統領「インドに核使用を検討」/02年、両国関係緊張の事態受け「報復を恐れ断念」”, https://mainichi.jp/articles/20170727/k00/00m/030/089000c, “Exercise SCO Peace Mission 2018 formally kick-starts today”, https://www.devdiscourse.com/Article/133505-exercise-sco-peace-mission-2018-formally-kick-starts-today, “Pakistan, India take part in SCO’s anti-terror drill”, https://nation.com.pk/20-Aug-2018/pakistan-india-take-part-in-sco-s-anti-terror-drill, https://www.geo.tv/latest/135494-Pakistan-allows-General-Retd-Raheel-Sharif-to-lead-Saudi-led-military-alliance, “動画:アジア歴訪中のサウジ皇太子の搭乗機、パキスタン上空で空軍戦闘機がエスコート”, “Saudi Crown Prince Signs $20B in Investment Deals in Pakistan”, https://www.voanews.com/a/saudi-crown-prince-set-to-begin-historic-pakistan-visit/4790600.html, https://jp.wsj.com/articles/SB11830615849198453656404585140260626424610, Pakistani nuclear scientist's accounts tell of Chinese proliferation, “Pakistani nuclear scientist's accounts tell of Chinese proliferation”, http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/11/12/AR2009111211060_2.html?sid=ST2009111300578&noredirect=on, China marks 70th V-Day anniversary with spectacular parade, “Gen Raheel says army will turn CPEC dream into reality”, https://www.pakistantoday.com.pk/2016/02/19/gen-raheel-says-army-will-turn-cpec-dream-into-reality/, http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2910984/9767884, アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update. 2021年1月07日. Hatena; Pocket; LINE; LINE; RSS; 1: 2020/11/27(金) 23:30:04.39 ID:6O0jnLkZp. バングラデシュの歴史・政治・宗教と国民の生活バングラデシュは、 インド スリランカ ネパール パキスタン バングラデシュ ブータン モルディブと共に南アジアを形成する国の一つです。この記事ではバングラデシュの 独立するまでの歴史 国内政治 インド・パキスタン分離独立(インド・パキスタンぶんりどくりつ、英語: Partition of India、ヒンディー語: भारत का विभाजन Bhārat kā Vibhājan または हिंदुस्तान का बटवारा Hindustān kā Batwārā、ヒンドゥスターニー語: ہندوستان کی تقسیم Hindustān ki Taqseem、ウルドゥー語: تقسيم ہند Taqseem-e-Hind)、略称として印パ分離(いんぱぶんり)、印パ分断(いんぱぶんだん)などとも、は、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタン(後にバングラデシュとして独立する Globe Pequot. バングラデシュ、ネパール、パキスタン、スリランカ、ブータンにおける個人情報保護法のアップデート. 宗教的配慮を要する外国人の受入環境整備等 に関する調査 ... インドネシア パキスタン トルコ バングラデシュ マレーシア (人) 10,719 10,771 17,023 1.6倍 図1 中部6県における在留外国人数(5か国抜粋) 図2 中部6県における延べ外国人宿泊者数(県別) ・「ウェブサイトやsns 海外の宗教事情に関する調査報告書 (平成17年3月発行)(3.95mb) 調査対象国 韓国,タイ,シンガポール,インドネシア,マレーシア,フィリピン,インド,パキスタン,バングラデシュ,イラン,ト … 宗教・神話; 哲学 RSS Feedly ; ホーム> アジア; オススメ記事(外部) ぶっちゃけインド人ってパキスタン人とネパール人とバングラデシュ人たちも含めるんだろ? 2020年12月5日. テレビの宗教 番組の比率が ... この動きは、1970年の総選挙におけるアワミ連盟の圧倒的な勝利を経て、1971年、東パキスタンのバングラデシュとしての独立へと連なっていった。 [応地利明] 政治. 5–6. 目的別に見る 海外ビジネスの目的にあわせてご利用いただける、ジェトロのビジネス情報とサービスをご案内します。 詳細を見る. 輸出 制度・手続きを知� Al J. Venter (2007). pp. Freeman, Colin; Khan, Taimur (March 13, 2017). るとバングラデシュのシーア派は約五〇〇〇人﹂冊子(一九九四年発行)には﹁一九八四・五年と一九九一年のセンサスによ市街にある歴史的なシーア派宗教施設であるホセイニわけではない。バングラデシュの首都ダッカのオールドダッカとよばれる旧ー・ダーラーンの紹介 "Pakistan in talks with Saudi Arabia to send combat troops to protect the kingdom". 11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた[11][12]。 p. 294. パキスタンとして独立した、という経緯があります。 ※1971年、東パキスタンは独立を求めて西側のパキスタン(現パキスタン)と内乱(バングラデシュ独立運動)となり、同年バングラデシュの独立が確 … よびフィリピン, 南アジアのインド, パキスタン, バングラデシュ, 西アジアから はイラン, トルコ, そして南米はブラジルを主たる対象国として, それぞれの国 について宗教団体に関する法律, 課税制度, 政教分離, 宗教と社会との関わりな 輸出 制度・手続きを知� 基づくパキスタンとして英領インドから分離独立し、 また1971 年には、そのパキスタンから非宗教的なベ ンガル人という民族意識に基づいてバングラデシュ が独立するので、これまでバングラデシュの国民統合 は二重のアイデンティティーから説明されてきた (e.g. Khan's nuclear network". バングラデシュ市場の魅力 第1回 バングラデシュとはどのような国か. インド亜大陸にイスラームが伝わったのは、8世紀頃からだと言われています。 元々この地域には様々な民族・宗教が混在していたため、比較的すんなりと受け入れられたようです。 13世紀になると、デリーを中心にイスラーム王朝がインドを支配するようになり、 「支配層はムスリム、民衆の多くは … 日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している[52]。, 2005年に1億6千万人を超え、現在は約1億8800万人。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国アフガニスタン他からの難民が急増したためと見られる。その数は累計で約600万人と言われる。また、出生率も高く、国連の推計では2050年には約3億4000万人にまで増加し、インドネシア(2050年に約2億9000万人)とブラジル (2億3000万人)を抜き、中国・インド・米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。, 2017年3月15日から5月25日にかけて1998年以来19年ぶりの国勢調査が行われ、パキスタン本土の人口は2億777万4520人と1998年比で57%増加した。また、2017年の国勢調査では1998年の国勢調査では対象外地域だったアザド・カシミールやギルギット・バルティスタン州も国勢調査の対象地域となっており、それらの地域を含めた人口は2億1274万2631人となっている。, 182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年), パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、バローチ人4%、カラシュ人など。, イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5%、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにシク教徒やアニミストも存在している。, ゾロアスター教の信者は10万人くらいで、地方によってはカースト制度なども残っている。, 結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い[53]。, ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。, 現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、15年以内にに英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2020年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人(英語版)(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド語を母語とするシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。, 著名な遺跡として世界遺産になっているインダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかに標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。, 古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。, パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所として知られるマリー醸造所(英語版)(マリー・ブルワリー)があり、非ムスリム向けにマリービール(英語版)が製造されている[54]。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれている。, パキスタンで最も人気のあるスポーツである。1992年にクリケット・ワールドカップで初優勝し、2017年にICCチャンピオンズトロフィーを獲得した。イムラン・カーンやワシム・アクラムは同国を代表するクリケット選手であり、世界のクリケットの歴史に置いても有数の選手とされる[55]。カーンは2020年現在、同国の首相である。, ホッケーはアジアを代表する強豪として知られており、ホッケーパキスタン代表が過去に1960年ローマオリンピック、1968年メキシコシティーオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックの3大会で金メダルを獲得している。他にもサッカーも盛んであり、パキスタン・プレミアリーグはパキスタンを代表するプロサッカーリーグとなっている。, 座標: 北緯30度40分 東経73度10分 / 北緯30.667度 東経73.167度 / 30.667; 73.167 (パキスタン), 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、200頁、, 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、206-214頁、, 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、210-211頁、, Lacey, Robert (2009). 海外の宗教事情に関する調査報告書 (平成17年3月発行)(3.95mb) 調査対象国 韓国,タイ,シンガポール,インドネシア,マレーシア,フィリピン,インド,パキスタン,バングラデシュ,イラン,ト … バングラデシュ; パキスタン; フィリピン ; ベトナム; 香港; マレーシア; ミャンマー; モンゴル; ラオス; 国・地域別に見る. 東パキスタン ... 1971年12月 インド軍が介入しパキスタン軍は降伏。東パキスタンはバングラデシュとして独立し、飛び地消滅 インドの地図(1933年) インドとパキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカがすべてイギリス植民地だった頃. イスラム教はトルコ、北アフリカ、マレーシア、パキスタン、バングラデシュとインドネシアの主な宗教である。イスラム教の聖典である「コーラン」は、大天使ガブリエルによってモハンメッドに書き取らせられた神の言葉であると言われる。 One Asia Lawyers. 307–. 【ホンシェルジュ】 インダス文明にまでさかのぼる長い歴史をもつパキスタン。しかし独立をしたのは1947年のことです。この記事では、古代、イギリスからの独立、インドとの対立、核実験や貧困問題など、パキスタンがどのような歴史を歩んできたのかわかりやすく解説していきます。 2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。 パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اسلامی جمہوریہ پاکِستان)、通称パキスタンは、南アジアに位置する共和制国家。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。, 面積は80万km2で日本(38万km2)の約2倍程。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の75%以上が住み、インダス文明に遡る古い歴史があり、人口の増加が著しい国の一つ。イギリス連邦加盟国である。, 正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاکِستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。, 公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。, 日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。, 国名「パキスタン」は、ウルドゥー語とペルシア語で「清浄な国」を意味する。پاک(パーク)が「清浄な」の意味である[4]。接尾語ـستان (スターン)は、ペルシャ語で「〜の場所」を意味し、サンスクリットのस्थान(スターナ)と同語源である[5]。, パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリー(英語版)による1933年の小冊子『パキスタン宣言(英語版)』の中で初めて使われたものである[6]。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANから"Pakstan"(パクスタン)としていたが[7][8][9]、後に、発音しやすくするために"i"が加えられて"Pakistan"(パキスタン)となった[10]。, 国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。, パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。, 気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花はジャスミンである。, その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。, 人口100万人以上の都市が10都市ある。首都イスラマバードは人口順では9番目に位置する。, 19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。, 1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー(英語版)が初代大統領に就任した。, 1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d'état)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。, 1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりズルフィカール・アリー・ブットーが職を追われ、後に処刑された。, 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命(英語版)が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。, 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。, 1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。 The Greatest Cricketer of All Time – your votes revealed! バングラデシュの歴史・政治・宗教と国民の生活バングラデシュは、 インド スリランカ ネパール パキスタン バングラデシュ ブータン モルディブと共に南アジアを形成する国の一つです。この記事ではバングラデシュの 独立するまでの歴史 国内政治 Inside the Kingdom: Kings, Clerics, Modernists, Terrorists, and the Struggle for Saudi Arabia. 150–53. これは、現在のインド・パキスタン・バングラデシュの地図です。カシミール地方はインド・パキスタン双方が帰属を主張し、現在も国境が定まっていません。一方東西に1800キロ離れて独立したパキスタンは、東がバングラデシュとして独立しました。 バングラデシュの宗教についてご存知ですか?まだ観光地化されていない国ですので、きっとよく知らない人も多いでしょう。ここでは「【2019年版】バングラデシュについて学ぶ!歴史や宗教や言語など」をまとめます。バングラデシュに興味のある人は参考にしてくださいね。 2010年、パキスタン洪水が発生。 南アジアプラクティスチーム. Pakistan at the Crossroads: Domestic Dynamics and External Pressures. 東パキスタン ... 1971年12月 インド軍が介入しパキスタン軍は降伏。東パキスタンはバングラデシュとして独立し、飛び地消滅 インドの地図(1933年) インドとパキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカがすべてイギリス植民地だった頃. (2009). 年にインドとパキスタンに分裂した際、当時の行政区分において東ベンガル州とさ れていた州(後のバングラデシュ)がパキスタンへの帰属を選択した結果、1949 年に「インド」という文言が「パキスタン」に置き換えられている。さらに、1971 インド・パキスタン分離独立(インド・パキスタンぶんりどくりつ、英語: Partition of India、ヒンディー語: भारत का विभाजन Bhārat kā Vibhājan または हिंदुस्तान का बटवारा Hindustān kā Batwārā、ヒンドゥスターニー語: ہندوستان کی تقسیم Hindustān ki Taqseem、ウルドゥー語: تقسيم ہند Taqseem-e-Hind)、略称として印パ分離(いんぱぶんり)、印パ分断(いんぱぶんだん)などとも、は、1947年8月14日および15日にイギリス領インド帝国が解体し、インド連邦とパキスタン(後にバングラデシュとして独立する飛地の東パキスタンを含む)の二国に分かれて独立したことを指す。インド独立運動における最大の悲劇に数えられる。, この結果、インドとパキスタンの両国が並び立つこととなり、この二者の対立は今日に至るまで続いている(なお、バングラデシュは東パキスタン時代に西から一方的な政治的支配・弾圧を受けた確執や、独立戦争にインドが協力した歴史的経緯から比較的親印感情が強いとされる)。, 第二次世界大戦の結果、イギリスは勝利したものの疲弊して超大国の地位から転落することが確実となり、脱植民地化の流れが強まるなかで最大の植民地であったイギリス領インド帝国の解体は不可避になっていた。, しかし、当のインドでは多数派(マジョリティ)のヒンドゥー教徒と社会的少数者(マイノリティ)であるイスラム教徒の対立は激しさを増し、特にムハンマド・アリー・ジンナーを指導者とする全インド・ムスリム連盟は1940年のラホール決議(Lahore Resolution)で「二民族論」[1](Two-Nation Theory)を唱え、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の分離を強硬に主張していた[2]。, マハトマ・ガンディーはこうした分離の動きに強く反対して統一インドの実現を唱えており、インド国民会議派も政教分離・世俗主義の立場から宗教による分離には慎重で、インド共産党やヒンドゥー・ナショナリストもそれぞれの反応をみせたが、分離の勢いが止まることはなかった。, イギリスも当初はヒンドゥー教徒の多い地域にヒンドゥスタン、イスラム教徒の多い地域にパキスタン、そして各藩王国を残し、この三者で「インド連邦」を構成する独立案を構想していたが、合意は得られなかった[3]。, そこでイギリス領インドの最後の総督ルイス・マウントバッテンはインドを一体とする計画を諦め、1947年6月4日、イギリス領インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割することによる独立(インド高等文官、インド軍、インド鉄道の分割を含む)を、同年8月15日をもって行う案を声明した。, また、独立後の統治の暫定的な枠組みをイギリス議会が制定した1935年インド統治法によって行うことも含まれていた。7月18日に施行された1947年インド独立法(英語版)(→インド憲法#1947年インド独立法)は、イギリス領インドをインドとパキスタンの2つの新しい国に分割し、それぞれの国の憲法(インド憲法およびパキスタン憲法(en))が施行されるまでイギリス連邦の自治領(ドミニオン。カナダやオーストラリアと同じ地位で、国際法上の独立国)とすることを定めた。, マウントバッテンが分離独立を示してから実施に移すまででも2か月強、インド独立法の施行からならばわずか1か月弱しかなかったことも問題だったが、それ以上に大問題となったのは、イスラム教徒が多数を占める地域がイギリス領インド帝国の東西に分かれて位置していることであった。, このため、西のパンジャーブ地方と東のベンガル地方はそれぞれインド・パキスタン両国に分割され、パンジャーブ地方はパンジャーブ州 (パキスタン)とパンジャーブ州 (インド)(後にそこからさらにハリヤーナー州やヒマーチャル・プラデーシュ州、チャンディーガルが分割される)に、ベンガル地方は東パキスタンと西ベンガル州に分割されることとなった。この地理的分割の作業は、それまでインドに縁がなかった[4]ロンドンの法廷弁護士(バリスター)シリル・ラドクリフ(Cyril Radcliffe)にゆだねられ、このため分割線(分離独立後はそのまま国境となる)はラドクリフ・ライン(Radcliffe Line)と呼ばれるようになった。なお、この分割線は独立当日まで公表されなかった。, ベンガルでは1905年のベンガル分割令に近い形での分離がなされた(en)が、パンジャーブでは分割の経験がなかったため、混乱はより大きくなった。, そして両地方ではヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、逆にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒(およびパンジャーブではシク教徒)はヒンドゥー教徒地域へ、それぞれ強制的な移動・流入による難民化を余儀なくされた。, イスラム法には異教徒の支配下にあり、宣教とジハードによる状況の打開が当面不可能な場合、イスラム教徒が支配する領域に移住すべきという思想がある。その思想に基づき、イスラム教徒の間で「ムハージルーン運動」と呼ばれる移住運動が展開された。, このとき短期間での一千万人以上もの人口流入によって生じた大混乱のため、特にパンジャーブ地方では両教徒間に数え切れないほどの衝突と暴動、虐殺が発生、さらに報復の連鎖が各地に飛び火し、一説によると死者数は100万人に達したとされる[5]。このとき生じた両者の不信感そして憎悪が印パ関係の後々まで影響することとなる。いっぽうカルカッタではガンディーの尽力により虐殺が抑えられた。, パキスタンの独立は8月14日に、そしてインドの独立は8月15日に行われた。ジンナーがパキスタンの総督となり、またジャワハルラール・ネルーが新生独立インドの首相となった。しかし、そこに至る道、およびその後の両国が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。, 保守的なイギリス人にとって、この事件はかつてのインド総督カーゾン卿が予言したとおりの、大英帝国の没落の現実化であった。またインドになだれ込んだヒンドゥー教徒およびシク教徒難民、パキスタンになだれ込んだイスラム教徒難民は、デリー、ボンベイ、カルカッタ、カラチ、ラホール、ダッカといった両国の大都市に巨大なスラムを生み、両国に膨大な都市貧困層を生じさせて社会の不安定要因となった。, ヒンドゥー、イスラム両教徒のあいだの不信は、両者の融和を説いたガンディーに対する反発[6]を生むこととなった。特に民族義勇団などのヒンドゥー・ナショナリストからはイスラム教徒やパキスタン側に対して譲歩しすぎるとして敵対視された。その結果、翌1948年1月30日、ガンディーは狂信的なヒンドゥー・ナショナリストによってデリーで暗殺される結果を招いた。非暴力を説いたガンディーが暴力の連鎖を止められず、自らもその中に倒れたことは悲劇の象徴として捉えられた。, また多くの藩王国はインド側の副首相ヴァッラブバーイー・パテールの巧みな交渉もありインドに帰属したが、大藩王国のニザーム藩王国とジャンムー・カシミール藩王国はその態度を最後まで決めかねており、1948年9月インドはニザーム藩王国を強制併合したが、ジャンムー・カシミール藩王国においてはその帰属をめぐって第一次印パ戦争が発生し、その後の印パ戦争とへと続いていく。, そして、パキスタンは東西に分かれた領土を持つこととなり、国家として不安定な状況を生むこととなった。これは最終的にバングラデシュ独立戦争と第三次印パ戦争を経て東パキスタンがバングラデシュとして独立するまで続くこととなる。さらに、両国の対立はインドの核開発(1974年および1998年)と、それに対抗するパキスタンの核開発という形で、南アジア地域にとどまらない世界的な国際政治の不安定要因を生み出している。, また、両国の対立はインドが世俗主義であるのに対し、パキスタンがイスラム教を国教としているという、両国の国家理念の根本的な違いに起因するという見解もある[7]。これは、インドではムガル帝国の3代皇帝アクバルが「民族融和の象徴」とされているのに対し、パキスタンでは6代皇帝アウラングゼーブがイスラームの教えを遵守した「英雄」とされている点からもうかがえる。, 「ジンナー(略)・1940年「二民族論」を展開、ムスリム国家建国を目標にかかげた」 - NHK高校講座 世界史 第35回 南アジアの独立 ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008年~2011年版), イギリスは親英的な藩王国およびパキスタンを通じて国民会議派が率いるヒンドゥー教徒の勢力を牽制し、インドに影響力を残そうとした。これに対してイギリスの影響力を排した, 「国境線を引く責任者には、インドには縁もゆかりもないロンドンの弁護士が当たりました。彼は、もっぱら統計資料だけをたよりに赤い線を引きました。こうして、そこに住む人々の文化や生活とは無関係に、新しい国境線が作られたのです。」 - NHK高校講座 世界史 第35回 南アジアの独立 ~インド、パキスタン、バングラデシュ~(2008年~2011年版), イスラム教徒の側からはガンディーの説く「融和」はヒンドゥー教徒優位のものと捉えられたことも事実であり、それが分離独立を後押ししたことも否めない。また、ガンディーのヒンドゥー教徒優位の(善意からではあったが)姿勢に対しては同様の批判が, イギリス領インド帝国#ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=インド・パキスタン分離独立&oldid=81058296, NHKアーカイブス 戦後60年 歴史を変えた戦場 インド・パキスタン分離独立 世界の火薬庫が生まれた日, ウルワシー・ブターリア:著、藤岡恵美子:訳 『沈黙の向こう側 インド・パキスタン分離独立と引き裂かれた人々の声』.
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