生年月日:1315年ごろ 没年月日:1369年あるいは1370年 名前:奇洛 称号:完者忽都(オルジェイ・クトゥク)皇后 本貫:幸州奇氏 父:奇子敖(キ・ジャオ) 母:不明 夫:恵宗トゴン・テムル(元15代皇帝)順帝ともいいます。 子供:アユルシリダラ 彼女が生きたのは高麗末期、元の最後の皇帝・順帝の皇后になりました。 高麗では35代恭愍王の時代。 日本では鎌倉時代になります。 世紀~13世紀のアジア地図. 初めは、大陸の北東部の遊牧民族の部族連合でしたが、チンギス・ハンは自身の弟や僚友、統括した各部族の王たちと共に強力な軍事態勢を敷き、その勢力を東西へと伸ばしていきます。 【訃報】元イラン代表のサッカー選手2人、新型コロナで相次ぎ死去… 試合のオンラ... footballnet【サ... 02/08 11:00: 最近の若者「好きなバンド?9mm!相対性理論!凛として時雨!base ball... いたしん! 02/08 11:00 【マイクラ】そらがログイン→みこ「すいちゃん! 13世紀、 モンゴル帝国 が栄えた頃は、元のもたらした安定と各地での整備を通じて東西交易がより促進された時代であった。 人口は1億人を超えていました。 それが帝国の躍進の原動力となり、ユーラシア大陸全土に広がっていくことになったのです。, その勢力はユーラシア大陸全体に及んでいて、華北はもちろんのこと、東ヨーロッパやトルコ、シリア、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島に至るまで、地上の陸地の4分の1を占めていたと考えられています。 モンゴル帝国の傘下に入った領土面積は最盛期の1279年には3300万平方キロメートルに。 元は、領土としてはモンゴル帝国のうちの一部にあたりますが、皇帝が治めていた国の中枢部分の呼び名を漢民族風に改めたもの。 これが元(蒙古=モンゴル)の皇帝「フビライ・ハーン」から日本に送られてきた蒙古の国書です.この中にもあるように蒙古は東は高麗・中国から西はヨーロッパまでを領土とする史上最大の国でした. 赤い部分が蒙古の領土.緑の国が家来になった国(属国=ぞっこく,といいます)※最� 鎌倉時代について勉強しています。そこで元冦についてあったのですが、モンゴル帝国と元が意味分かりません。日本史の教科書しかないので教えてください。1.モンゴル帝国をいくつかにわけて、それぞれを孫が支配した。その一つが元であ 元時代は大方そうだが、モンゴルは漢民族の正統な政権の特徴はなく、「モンゴル帝国」の立場で中原に来た。 元時代はいろいろな時代や国が混ざった時代だった。 18. とある中国人 日本人は元と清は異民族王朝として軽蔑しているよ。 19. とある中国人 1266年(文永3年)、日本に元(旧モンゴル帝国)から届いた「手紙」。これは、のちに2度の「元寇」(蒙古襲来)を勃発させる手紙です。元寇は簡単に言うと「文永の役」と「弘安の役」の2度、日本にモンゴルが攻めてきたこと。教科書のみでは知り得なかった元寇についてご紹介します。 モンゴルはかなり惨い侵略で国々を制圧していったから、強さ=野蛮さという意味で語れば最強だと思う。 ただ、モンゴル人も文明化や教養に強い憧れがあり、三代目辺りになるとモンゴル帝国のしきたりはほぼ中華式になっちゃったって話だけど…。 11. 皇帝( エンペラー )もしくはそれに準ずる称号を持った支配者を元首とする国 2. モンゴル帝国の「興隆」に関する問題意識 4 2.モンゴル民族の忍耐力は、どのようにして育まれたか。 (火を通さない肉だけ食べて10日間も行軍していた、口に入るものならなんでも食べていた、泥水も … モンゴル帝国は帝国全土にわたる交易路を整備し、また 20 〜 30km おきに宿舎・食料・換え馬を備えた宿駅を設置することで交通の円滑化を図りました。この制度をモンゴル語でジャムチと呼んでいます。 よく考えたら、この時代にすごいことしていますよね。 複数の民族等を支配下に置き、一定以上の広大な地域を領有する大国 3. 大元 大元 ᠳᠠᠢ ᠦᠨ ᠶᠡᠬᠡ ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ ᠦᠯᠦᠰ ← ← 1271年 - 1368年 → → → → → 元の版図(1294年) 公用語 漢語、モンゴル語(公文書) ウイグル語、女真語、契丹語など 首都 大都 皇帝(大ハーン) 1260年 - 1294年 世祖 セチェン・ハーン 1333年 - 1370年恵宗 ウカアト・ハーン 宰相 1264年 - 1282年アフマド 1340年 - 1355年トクト 面積 1310年11,000,000km² 1330年13,720,000km² 人口 1290年58,834,711人 1293年79,816,000人 1330年73,873,000人 1350年87,147,000人 変遷 建国 1271年12月18日 南宋を滅ぼし、中国を統一1279 … モンゴル帝国 ᠶᠡᠭᠡ ᠮᠣᠩᠭᠣᠯ ᠣᠯᠣᠰ Yeke Mongγol Ulus (ラテン文字転写) ↓ 1206年 - 1635年 ↓ モンゴル帝国の版図の変遷 テムジンがチンギス・カンを名乗った1206年から1294年のモンゴル帝国(赤)の領域に続き、4つの領域国家のゆるやかな連邦体制に移行した帝国の版図を示した(1294年時点)。ジョチ・ウルス(黄)、チャガタイ・ウルス(濃緑)、フレグ・ウルス(緑)、大元ウルス(紫)である。 公用語 モンゴル語 首都 カラコルム 皇帝(大ハーン) 1206年 - 1227年 チンギス・カン(初代) 1260年 - 1294 … 以下の意味が存在する。 1. 野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月, 松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」『(講座イスラーム世界 3 )世界に広がるイスラーム』(堀川徹 編)栄光教育文化研究所、1995年、p.157-192, 佐伯好郎『元時代の支那基督教(支那基督教の研究 第2巻)』名著普及会、1979年(初版:春秋社松柏館、1943年), 高橋文治「太宗オゴデイ癸巳年皇帝聖旨訳註」『追手門学院大学文学部紀要 』25号、1991年、p.422-405 ;森田憲司「曲阜地域の元代石刻群をめぐって」『奈良史学』19号、2001年12月 ;宮紀子「第5章 大徳十一年『加封孔子制』をめぐって」「第6章 『廟学典礼』箚記」『モンゴル時代の出版文化』, 宮紀子「第2章 鄭鎮孫と『直説通略』」「第8章 「対策」の対策」『モンゴル時代の出版文化』名古屋大学出版会、2006年, 「マンジャニーク( منجنيق manjanīq < pl. 中村淳「モンゴル時代の「道仏論争」の実像--クビライの中国支配への道」『東洋学報』Vol.75, No.3・4 (1994/03) pp.229〜259. 元は 騎馬民族特有の機動力と攻撃力 で、世界を震撼させました。 青く塗られた地域は、モンゴルの支配下になった場所です。 最盛期には陸地の25%を支配した というのですから、スケールが違いますね。. 韓国人と中国人と日本人の違いは、韓国人の中には一定の割合の桐人がいることです。 これらの人はモンゴル、満州、カザフに広く分布しています。 桐人の外見は、顔が大きく、目が非常に小さいことです。 とても多くの韓国の「Ouba」は小さな目です。 そこで、結果的に、モンゴル帝国というふわっとした連合体制が生まれたのだと考えられています。, あまりに領土を広げ過ぎたため、「モンゴル帝国と元はどう違うの?」と、後の世の人々(私たち)を悩ます要因を作ってしまったのです。, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, 世界の4分の1を支配していた?万里の長城をどうやって突破したの?実は源義経?子孫が1600万人いるって本当?数々の伝説を残し、世界最強最大の帝国であるモンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハン。ナポレオンと並ぶ”戦いの天才”であったと称された史上最強の征服者は、どのようにしてそこまで強い国を作り上げたのでしょうか。その生い立ちと生涯を追いかけながら、モンゴル帝国の強さの秘密に迫ります。. モンゴル帝国の巨大交易網と黒死病~グローバリゼーションが伝染病を拡大~ 蒼き狼とモンゴル帝国 1205年、長く統一政権を持たず互いに争っていたモンゴル高原の諸部族が、ある男によって武力統一されました。 フビラン・ハンといえば、モンゴル帝国の第5代皇帝で、中国を治めた元の初代皇帝でもあります。 日本には、あの元寇(げんこう・日本侵攻のこと)を2度にわたって送り込み、日本を支配下に置こうと計画していました。 今回、フビライ・ハンのか [&he モンゴル帝国はひとりの皇帝が統治する国ではなく、チンギス・ハンの腹心たちがそれぞれ分かれて集団を作っていました。 もしフビライが、皇帝が統治する領地を「元」と中国風の呼び名にせず、○○ハンと名付けていたら、様子が変わっていたかもしれません。 国を強くするため侵略を続け、広くなりすぎて、様々な文化圏の領地を納めなければならなくなったモンゴル帝国。 しかし、元がモンゴル帝国の一部というわけでもなく、かといって元が他のハンを支配していたわけでもなく、モンゴル帝国=元というわけでもない。 文永5年(1268年)閏正月8日、南宋を攻略していたモンゴル帝国の皇帝クビライ・カアンは朝鮮半島の服属国・高麗を通じ、通好を求めて日本に使者を送った。これに対して鎌倉幕府は3月5日に執権を務めていた老練な北条政村を連署とし、連署を務めていた18歳の北条時宗を執権とする人事に着手、幕府はモンゴル帝国からの国書を黙殺し続け、その後も来訪してきた使者を送り返した。 文永10年(1273年)、6度目の使者も無視されたことでクビライは日本への武力侵攻を決定。モンゴル帝国とその属国であ… 1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/11/05(木) 08:01:09.83 ID:9V5u6vqf0.net元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究) 1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた 2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた 3(一) 相 モンゴル本地で即位した末弟アリク・ブガ (阿里不哥)を破り,大都 (現在の北京) に遷都し,元号を建て,71年大元という国号を採用,中国風王朝を建てた。ここにモンゴル帝国は元と西方4ハン国に分裂した。 その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。. 元(モンゴル)軍も夜になると船に引き上げたため、その日の戦いはここまでで終わった。その夜、大暴風雨が元(モンゴル)の船団をおそい、元(モンゴル)軍は大損害を受けて、朝鮮へと逃げ帰った。 « 前ページ 次ページ ». テムジンはモンゴル帝国の長として可汗改め"汗(カン。 ハン )"の称号を得、シャマニズム(霊と巫女を通して交感する呪術的宗教)における最高神"光の神"の意とされる"チンギス"を使用、 チンギス=ハン (成吉思汗)と称してモンゴル帝国の初代皇帝となった(位 1206~27 )。 彼らは既に与えられていた土地にそれぞれ王国を築いていき、モンゴル帝国はチンギス・ハンの子供や孫たちが治める国々による連合国家となっていくのです。, チンギス・ハンが没してから半世紀近くの間、彼の子孫たちは、大陸の北東部を中心に各地に広がり、様々な文化圏に及んでいきました。, まず、チンギス・ハンの次男のチャガタイが治めていた中央アジア付近はチャガタイ・ハン国に、その北部には三男オゴタイが興したオゴタイ・ハン国。 広大なユーラシア大陸に住む漢民族たちを統治するため、都を大都(北京)に移し、国号を「元」と改めました。, 元は、領土としてはモンゴル帝国のうちの一部にあたりますが、皇帝が治めていた国の中枢部分の呼び名を漢民族風に改めたもの。 このクビライのモンゴル帝国が1271年に「元」と国号を改めます。 ですから、この時、王朝が分かれて「元」ができたわけではありません。既にその前の何十年も前に各汗国は成立しており、本家のモンゴル帝国が国名を「元」に改めただけの話です。 世界各国の人々の性格と心理の違いについて、紹介していきます。世界各国によって、性格や心理は異なり、その特徴を知ることで、世界各国の人々と仲良く協力していくことができるようになるのですね。 中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違い ... 重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元(モンゴル帝国 )である。北宋時代に関係があった高麗や西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海 フビライはより強い国を目指して、大陸の北東部、つまり中国の支配に力を入れていきます。 本国外の支配地からの収奪によって経済を成立させる体制、主に批判的な文脈で使用され、詳細は帝国主義を参照 モンゴル帝国崩壊はペスト流行が一因だった⁉ 「世界史のグローバル化」と感染症の深い関係. 19~20世紀初頭の大英帝国には及びませんが、13世紀という時代や領地が全て陸続きであることなどを考えれば、”史上最大”の称号は文句なしと言えるでしょう。, チンギス・ハン自身はこうした領土拡大の途中、1227年に遠征先で亡くなっていますが、その意思は息子や孫たちに受け継がれていきます。 مناجيق manājīq )」という単語自体は, 従来の中国式の投石機は人力で投石するものであったが、おもりの力を利用するマンジャニークはその3倍程度の重量物を約1.5倍の射程まで撃ち込んだ, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=元_(王朝)&oldid=81253546, 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』 講談社〈講談社現代新書〉1996年5月、, 杉山正明 『モンゴル帝国の興亡(下)世界経営の時代』 講談社〈講談社現代新書〉1996年6月、, 杉山正明 『中国の歴史8-疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』 講談社、2005年。. 翻訳元ではその事が、つまり今上陛下がこの世界でただ一人の、 ... 天皇とは違います。 ... 帝国と国はいわば国と市のような関係で、帝国のカテゴリーであるローマの外部に位置するものとしてオスマン、そして中華の勢力をimperialと翻訳したのだよ 元の強力な軍事力と支配. >独島でアシカを捉えた日本人が鬱島郡に納税したということは大韓帝国が独島を実効支配していた証拠 本当に学者なのか?ww 論理が飛躍しすぎて何の証明にもなってないぞ そもそも「大韓帝国」とやらはどの時代の何処に存在した帝国なんだよwww バイバルス・アル=ブンドクダーリー(アラビア語: الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري ‎ al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年 / 1228年 - 1277年 7月1日 )は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(在位:1260年 - 1277年)。 しかしおそらく、漢民族を支配するためには名を改める必要があったのでしょう。 3.モンゴル帝国時代の東西交流 3.1 元代における東西交流の促進. 国が大きくなるにつれ、チンギス・ハンの子孫同士で争いになることもありました。, そんな中、第5代皇帝として即位したのがチンギス・ハンの孫、フビライ・ハン。 皆さん騙されてはいけません。. ユーラシア大陸全域がチンギス・ハンの子孫が建てた国によって統治されるようになりました。, いくら連合国家とはいっても、ひとりの皇帝が統治するには広すぎます。 順を追って訂正していきます。. 「元」の意味は中国の王朝の一のこと。Weblio国語辞典では「元」の意味や使い方、用例、類似表現などを解説しています。 モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい. 期 アジア・ダイナミズム班 4 . ですが、かといってイスラム圏やトルコのほうまで急に全部漢民族風の国号にするわけにもいかなかったはず。 周昌傳:「左遷」、顔師古注:“是の時、右を尊い而して左を卑しみ、故に秩位を貶するを謂い左遷と為す。宋.戴埴《鼠璞》:「漢は右を以て尊と為し、貶秩を謂いて左遷と為す、仕诸侯は左官と為り、高位に居り右職と為る。, 元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である遼や金と比較すると民族固有の支配体制を維持していたため、元では律令のような体系立った法令を編纂せず、モンゴル時代や元初は法や裁定が紊乱して民衆の困窮を招いた。次第に政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねを法令と成し、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威を持った。しかし、元末まで法体系の不備は解消されず縁故による汚職がはびこる温床の一つとなった。モンゴル人は文字としてモンゴル文字と、クビライが新たに作らせたパスパ文字をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれたモンゴル語を正文としていた。漢文の翻訳も付いたが口語的・直訳的な文体が用いられた。なお、積み上げられた法令は、『元典章』という漢文の書物に編纂されて現存しているが、文章は直訳体に加え当時の官吏が用いた特殊な文体であり、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。元の世祖の時に比較的体系立った『至元新格』が、英宗の時(至治3年、1332年)に体系的な法令である『大元通制』が編纂された。, 元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。, 腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で使われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。, 行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家のモンゴル皇帝政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路・州・県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。, また、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じく季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、個々の所領はチンギス以来の権利によって貴族が所有する封土であり、自治に委ねられていた。しかも個々の位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状に散った領民・領地を持っていた。定住地帯では、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任じて、皇帝の直接の支配権が及ばない位下領・投下領が、封土を含んで地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。, 元に服属した天山ウイグル王国は、内政に関しては高昌王を授けられ従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はキュレゲン(キュレゲンとはチンギス・カンの女婿、つまりは外戚である)としてモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。また、元に服属した高麗は12省に組み込まれて高麗省となり同じく行政に就いて自治を認められたが、高官の人事権や政治・軍事は所属する行省のモンゴル人によって支配された。忠宣王以降の国王は名目的な存在となり、モンゴル皇女を母とし即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようであった[14]。, このように元の地方制度は、中国王朝に伝統的な中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配下にありながら異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。, 人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府、地方政府共に人材登用では能力ではなく縁者の階級が重視され高官の子弟は修養や実務を積む前から権限のある役職に就いた、またチンギス時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備まで皇帝の身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に就き政治に携わる者の多くは、皇帝との個人的主従関係に基づき登用されたケシクテン所属者(ケシク)からの出向であった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定は皇帝とケシクに列する有力者の合議により行われた。, 宰相など最高位の官職は、ケシクの中でも皇帝に近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(駙馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。, 皇帝家との封建的主従関係に基づく世襲社会の元朝では能力に基づく選抜採用は必要がなく、また大量の増員があった元朝による南宋滅亡に際しても、投降した旧官吏を大量採用したため[15]、科挙によって新たに官僚を登用する必要が存在せず、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われなかった(耶律楚材の実施した科挙によって一次登録された4000人のうち、中央高官や県長以上の官職に就いた24人などの例もなくはない[16])。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によって賄われていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。, このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。その結果、元朝の官吏は文官としての能力を著しく欠いた無能者が多く、汚職や悪政と搾取を繰り返す元凶となった。, 貴族の家門に属さなくとも出世できた者もいたが、主に彼らはモンゴル帝国の初期から政商として重用され、元朝初期に高官として財務を担っていた色目人(モンゴル人、漢人、南家以外の総ての人々)貴族だった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じて皇帝や貴族と金銭を通じたつながりをもった彼らは財務に明るく重用された。しかし、徴税や専売税の請負いなどで度重なる臨時増税を課して過重な負担を負わせ、汚職と曲法を極めて搾取を行ったことは「税人白骨」に代表される民衆の怨嗟のまととなった[17]。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。, 南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなかった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南家(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。, もっとも、官吏・軍人・儒戸としての出仕、縁故・推挙などによる出仕、国子監などの国の教育機関を通じた出仕、科挙及第による出仕と出仕経路の多様性をモンゴル帝国・元朝の人材登用の特徴として捉え、元代の知識人の多くは自分に有利な方法での仕官を目指したのであって、「進士及第」という社会的名誉にこだわらない限りは、どの方法でも構わなかった(科挙を受ける必然性はなかった)とする指摘もある[18]。, 民間の掌握にあたっても、元では、個々の民と皇帝との個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上ですでに触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。, こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いに厳格な格差が存在した。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南家の四等身分制度である。四等身分制度が実施されたため、漢人南家の高級官吏は万人無二と称される様に非常な小数に抑えられていた。但しこの身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前からウイグル人・契丹人・漢人・女真人などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人(ムスリム)たちには財政部門を、文化・宗教関係部門にはチベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術分野にはあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のように元々モンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。台北市の国立故宮博物院に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれており、このことから黒人ですらこの様な扱いを受けているのに、南家や漢人が差別されたのは考えにくいことである[19], このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず縁故主義(科挙は実力に基づく)により人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その分権的で中世的な支配は、唐代以来貴族階層及び農奴制の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。また、流通や貿易の振興を図り、紙幣を流通させるなど経済・商業政策は南宋の施行を引き継いだものの、奴隷制へ逆行した弊害は大きく広範な産業(特に農業全般、漁業、鉱業全般)において停滞期に入り、宋代の水準へ回復するのは明代中期まで待つ事となる。[20], (単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム), 元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興した。また、塩の国家専売による莫大な収入と莫大な農業生産力による穀物が国庫を支えた。経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からも商税が得られた。元での経済政策を担当していた者の多くは色目人であった。, 中国の全土を見渡すと、元の国土の内側で最も生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっており、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。[21], 江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の田地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する収穫が得られる奴婢を用いた官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進されたことを物語っている。さらに虞集に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。しかし、金代に農地1畝当たり1.5石程度だった華北の生産性が元代には1畝当たり0.6程度にまで激減しており、戦乱や奴隷制による農業技術の大きな衰退が確認される。, また、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物を大都へ運送するのに手間の掛かる運河ではなく海運を使用するようにしたことで京杭大運河は完成した。, さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える塩・茶(酒・明礬は江南に偏らない)などの専売品の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に欠かせないことから厳重に管理され、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。, この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で相次いだ反乱により元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。, (政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は1260年のクビライ即位の年の例に拠っている。), 漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。, 税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、人頭税と面積に対してかかる一般的な田税の両建てだった歴代中国王朝とは趣が異なる。, もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で絹糸を22両4銭(重量)を収め、包銀は銀6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられた。この2つの税の徴税事務は、金を滅ぼし華北へ進出した当初は委託された徴税人によって行われていたが、モンケの治世期以降は次第にかつてモンゴルへ投降した在地の金人・漢人の世候によって代替されるようになり、それに伴って中間での抜き取りは減ったものの元朝政府は税額を2倍前後としたため民衆の過重な負担は変わらなかった。, 一方、江南の方では、南宋から引き継いだ両税法をそのまま用いていた。両税法では、各戸が夏に木綿などの物産、秋に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。, しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入に依存する割合が他の王朝よりも高かった。, 元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税は、金や南宋と同じく奢侈品や非日用品が州府間を移動するときや港湾を商品が通過するときに関税を課され、日用品は最終売却地で売却時に商税を支払えばよかった。反面、海外との交易は厳格に統制が敷かれたが、国庫に入る商税の総額は歳入の1~3割にのぼった。, しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。, 中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔(こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。, 交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。, これに対して1287年に中統鈔の五倍の価値に当たる至元通行宝鈔(通称・至元鈔)を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。, さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。, こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。, 元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギスの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていた君主は、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。皇帝の側から見れば、皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。, このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、14世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は1356年に廃止された。, 元は権利を授与した政商や王侯が委託する海商以外の海外交易を厳禁とし、私貿易に対する海禁政策(外国からの交易船は禁止していない)を執っていた。金銀銅鉄貨や奴婢・武器防具・絹・馬匹・兵糧を持ち出しが発覚した場合は、船主以下棒叩き107回・船舶積荷没収の罰が課され、外国からの交易船に対しても徴税と取引の監視と規制が為された。, 船舶は決まった港湾への登録が義務付けられ、それ以外の都市に停泊した場合は罪に問われた。また乗員も厳格な管理が行われ船長から水夫に至るまで全員に登録の義務があり、漏れがあった場合は関係者の家族諸共罪に問われた。交易先も厳重に管理され、申告した国以外との貿易は認められず、大船には官吏が乗り込み取引内容などの監視が行われた。, 元では船舶税として出国と帰国の際に積荷の1/30を、交易許可として細貨から1/10を粗貨から1/15を現物で徴収した。, 元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、チンギスの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた。, 中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギスの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにモンゴル皇帝のために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。金朝の首都であった中都(のちの大都が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の道観は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は浄土教系や禅宗などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。モンケの治世にカラコルムと中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されたウィリアム・ルブルックも出席しており、帝国内外のキリスト教徒やイスラム教徒の知識人たちも参加していた)[22], 京兆府(現在の西安)から中都(燕京)に派遣されたクビライのもとで開催された時、華北仏教諸派の嘆願を汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力を剥奪され、代わりに中都での宗教行政の総監であったカシュミール出身の仏僧「国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれたチベット仏教サキャ派の高僧サキャ・パンディタ、およびパスパに宗教界を監督する権限を与えた[23]。全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力を一時的に後退させた。しかしながら、これは根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、後漢の五斗米道の系譜をひく正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。この前後から全真教のみならず少林寺、玄中寺などの浄土宗、禅宗の仏教大寺院をはじめ曲阜などの孔子廟などに加え、チベット仏教へも歴代モンゴル皇帝や王族、貴族層から多大な保護と寄進を受ける[24]。, 仏教は、はじめに保護を獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に杭州の中峰明本(1263年 - 1323年)がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ(パスパ)に対し、1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認めた。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。元代後期から末期になると、これに耽溺するモンゴル王侯が増え、ラマ[要曖昧さ回避]に過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。, また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである[25]。もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた[26]。例として、モンテ・コルヴィノは、1307年に初の大都管区大司教に任じられている。, ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである[27]。儒者の排斥は、旧金・南宋の知識人層の間でも多くの者が名を飾って実を顧みず党争と些末な字句解釈に拘り国を滅ぼした儒教・科挙に不信感を抱いていたことも大きい。, なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で朱子の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる朱子学が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している[28]。, モンゴル・元代には有名なマルコ・ポーロ、イブン=バットゥータのように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより幾つかの西方の情報と技術が持ち込まれた。, 例えば、モンケの時代にモンゴル宮廷に招聘されたイラン出身のジャマールッディーンにより暦法が持ち込まれた。1271年に回回司天台と呼ばれる天文台が作られた際の天体観測機器には国内の技術と観測形態が使用されている。クビライの側近であった中国人学者郭守敬は、回回司天台の観測結果をもとに新しい暦である授時暦を作り1年を365.243日と定め、この暦は明の滅亡まで使用された。大元朝と友好関係にあったイルハン朝のフレグによって創設されナスィールッディーン・トゥースィーらによって運営されたマラーゲの天文台と天体観測データーの交換が活発に行われた。, 回回(ふいふい)は、本来は「ウイグル」の音写である「回鶻」に由来する単語であるが、「回回教」「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことであり、元朝時代において語源である「ウイグル」が「畏兀児」と音写され、「回回語」が実際にはペルシア語のことを指していたように、具体的にはマー・ワラー・アンナフルやホラーサーンなど広く西方のイラン系の人々に由来する事物を指した。元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、投擲距離が数百メートルに達する可動式の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」(トレビュシェット)というペルシャ式の投石機をつくった[29][30]。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られた。金攻略に際しては、初期の作戦は攻壁攻撃力の欠如により失敗したが、投石器の利用により成功にいたる。, 中国科学史の大家であるジョゼフ・ニーダムは、優れた実用技術の利用に反し元・明代は中国において科学技術の停滞期であり、宋代からの水準低下は天文学・暦学や数学を始めとした科学分野に見られると指摘した[31]。, 元の時代の文学で特筆すべきは雑劇と呼ばれる戯曲の作品である。漢文、唐詩、宋詞、元曲など言われるようにこの時代の「曲」は歴代でも最高とされる。, 小説にも才能のある作者が集まり、西遊記、水滸伝や三国志演義などはこの時代に原型が出来たとされる。, このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは漢詩と歴史であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。, 一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である趙孟頫(子昂)、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族(色目人)の詩人があらわれ、ムスリムの進士(科挙合格者)である薩都剌を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。, 書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、書は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、絵画は北宋以来の院体画を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、南宗画とも後に区分される山水画の技法を確立していった。, 陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には染付などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの青磁などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対照をなす。青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。, 元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブールのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。, 以下にあるように、クビライによって国号が改められてから、同王朝では「大元」がひとつの固有のタームとして使用されていたことが近年の研究で明らかにされており、特にモンゴル帝国時代では形容詞の「大」が国家やモンゴル王室に関わるキータームであったことが判明している(モンゴル帝国での「大」の問題については、志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説』(東京大学出版、1995年)などに詳しい)。そのため、近年では「元」などでは呼称上からもモンゴル政権としての実態について不正確な認識を生むとして、モンゴル帝国史研究の, 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.179-189, 杉山正明「第2章 モンゴル帝国の変容」『モンゴル帝国と大元ウルス』p.119-120, 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川書店(角川選書)、1992年6月 p.219-230, 松田孝一「モンゴル時代中国におけるイスラームの拡大」『講座イスラーム世界 3 世界に広がるイスラーム』(板垣雄三 監修)栄光教育文化研究所、1995年1月、p.157-192/ 佐口透「第4章 東アジアのイスラム 第1節 元朝のイスラム教徒」『東西文化の交流 4 モンゴル帝国と西洋』(佐口透 編)平凡社、1970年 p.248-260, 野口善敬「第2章 元・明の仏教」『新アジア仏教史 08 中国III 宋元明清 中国文化としての仏教』佼成出版社 2010年9月, 森平雅彦「世界帝国のなかの高麗王」『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』(世界史リブレット, 山川出版社.2011年5月) pp.32〜55, 飯山知保『金元時代の華北社会と科挙制度』早稲田大学出版部(早稲田大学学術叢書)、2011年3月 p.290-307, 大半は『中国の歴史8-疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元』のp344からp346より引用, 『世界歴史大系 中国史 3 五代〜元』、p494。ただしこれは華北の土地を広くモンゴル貴族の所領としたためでもある, カルピニ、ルブルク(護雅夫 訳)『中央アジア・蒙古旅行記』(東西交渉旅行記全集 1)桃源社、1965年p.263-274. さらに、西側には長男ジョチとその次男バトゥが統治していたとされるジョチ・ウルス(またの名をキプチャク・ハン)が広がり、孫のひとりであるフラグは西方のイスラム圏まで勢力を伸ばし、中東全域にイル・ハン国を打ち立てます。 チンギス・ハーン以来モンゴル帝国系の諸将によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権はムガル帝国の成立までモンゴル帝国一門に連なる諸勢力による領土的な支配を許していなかった。. 13世紀、ユーラシア大陸にモンゴル帝国が出現。1274年、モンゴル帝国は日本への侵略を開始した。鎌倉幕府の8代執権北条時宗は、全国の武士団を団結させ、モンゴル帝国と戦った。幕府軍は、苦戦の末に撃退に成功する。しかし、この戦いを契機に、幕府は崩壊への道を進む。 5 漢民族支配の中国と、漢民族以外(モンゴル・満州族)による支配の中国との違いはあるか。 1.モンゴル帝国史 (1206-1271) ・元 (1271-1368) ・北元(1368-1632) ・清(1632-1911) インターゼミ 11. モンゴル帝国全体では、元は正式には大元ウルスと言われ、その他のウルス(ハン国)を統合する権力が与えられた。この時点ではその支配はもと金の支配した華北に限られ、華南は南宋が支配していた。また都は大都(現北京)であったが、これは冬の間の都であり、夏の間は内モンゴルの モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫であり、元の初代皇帝となったフビライ・ハン。中国を支配し、朝鮮半島や東南アジアへも勢力を拡大したフビライは、日本史においても2度の元寇で知られています。フビライ・ハンとはいったいどのような人物だったのでしょうか? 元陸軍軍人が言ってるけど敵地(占領地)では住民からの情報が 一番大切で住民を敵に回すとこっちがやられるから、 戦力に限りがある帝国軍人は地元非戦闘住民は結構大切にしたみたいだよ。 それでも中心は大陸の東側であり、中国を支配することが一番の目的だったのでしょう。, 13世紀後半の地図を見ると、チャガタイ・ハンやオゴタイ・ハン、イル・ハン、キプチャク・ハンと並んで元が存在していたような構図になっています。 私も西軍が勝った世界線に住んでいますが、元記事は歴史修正主義者が書いた悪質なプロ バガンダ増田です。.

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